大澤せいら 「カンボジアに生まれて」

 会員の大澤せいらさんから、2013年3月19日に国際ソロプチミスト近江八幡で行った卓話を起こしたものをいただきました。前後半に分けて紹介します。

 皆さん、こんにちは。いつも、いろいろ有難うございます。私はカンボジア人のケオ・セイラピッチです。日本の名前は大澤せいらです。
 私は日本人の夫と長女と一緒に琵琶湖の近江八幡市に住んで8年になりました。今は餃子の工場で働いています。八幡は琵琶湖の島もあるし、お米も美味しいし、サテイもあるし、子ども園もあります。私はよかったです。私の生まれたカンボジアには、子ども園はありません。ポルポトのせいで、田舎の学校は燃やされてありませんでした。先生も殺されていませんでした。八幡に来てよかったです。

日本人との結婚

 では、なぜ八幡に来たかというと、私はプノンペンでNGO ASACで学校を建てる仕事をしていました。私の夫はNGO ASACを作った岡村まりこさんの知り合いです。岡村さんは若い時にびわこトライアスロンで入賞しました。その時の知り合いです。私は岡村さんの紹介で日本人の夫と結婚を決めました。私たちはNGO ASACの建てたベトナム国境のトンホン小学校で結婚式をしました。教室の中でお坊さんに来てもらって、子どもたちの前で式をしました。私は、まりこさんの言うことを聞いて、日本人の夫と結婚して日本に来ました。後悔はしていません。そして、今、皆さんの前にいます。これからもずっとよろしくお願いします。

カンボジアの復興

 さて、私たちのなれそめはこれくらいにして、カンボジアのことを話します。カンボジアはポルポトの内乱の為、町では10年、田舎は20年くらい遅れています。私の父の実家のクケオはプノンペンから車で2時間位です。最近、近くに工場が出来たので、やっと電気が来ました。井戸も掘りました。もう雨の水を溜めて、カメの中のぼうふらをすくって沸かすこともないです。今度、皆さんがタケオに行かれた時は、カラーテレビがあるかもしれません。今、工場の給料は1ヵ月50ドル位です。どんどん良いものが入ってきていますが、悪いことも増えています。

家族のこと

 それから、私の家族のことを話しますと、父は若い時、アメリカに留学していたそうです。母は十字のマークの帽子をかぶっていたのを覚えています。そして、私が5歳の時、中国の服を着たポルポトがやって来て、両親を連れて行きました。コンポンチャーム県の大臣をしていたお父さんの家が燃やされ、牧場がなくなりました。私は近くの山に逃げました。お父さんとお母さんはバッタッボン県に運ばれて、穴に埋められました。父の名前はケオトン。母はマックサマアです。私はお金を貯めてバッタッボン県にお墓を建てたいです。ポルポトはアメリカよりの考え方の人とか役人とか病院の先生を殺しました。新聞には約170万人とか書いてありますが、その倍くらいは殺されているでしょう。ポルポトがカンボジアの大統領になったのですが、3年8ヵ月20日で辞めました。何のためにこんなひどいことをしたのか解かりません。許せないです。

ポルポトから逃れて山に

 山の中の生活は大変でした。ほとんど、子どもだけなので、年上の人がリーダーになって、グループがいくつか出来ました。山の野菜とか果物を採って食べました。3年くらい、山の中の生活が過ぎて、ある日、ポルポトの兵隊が山の中に来て、敵、味方の区別をすると言って、体にマークを付けました。女の子は右の眼にお米を入れられて、やがて、目が黒くなって見えなくなります。男の子は右の耳を取られます。私はお米を入れられましたが、自分で木の枝で取りました。でも、取る時に目の水晶体を傷つけてしまい、後で、戦争が終わってから、プノンペンの病院で水晶体を取りだしたので右目はレンズがなくなってしまい、見えません。レンズが欲しいです。

(次号に続く)